ご祭神 吉田松陰先生について

吉田松陰先生肖像
吉田松陰先生肖像

吉田松陰先生は,天保元年(1830)8月4日長州藩(現在の山口県)萩松本村で毛利藩士であった杉百合之助常道の次男として生まれました。松陰というのは号で、名前は矩方、通称寅次郎。幼い頃は虎之助と呼ばれていました。

杉家は貧しい家でありましたが、勉強家であり勤勉な武士の父の下、幼い頃は兄梅太郎と共に「論語」「孟子」などの中国の古典を学びました。

松陰先生には他家を継いで姓が違いますが吉田大助、玉木文之進という2人の叔父がいました。吉田家は山鹿流兵学師範を務める家柄で代々藩主に講義をしたり、明倫館(藩の学校)で藩士に講義をしていました。しかし大助は29歳で亡くなってしまい松陰先生が6歳の時、文之進を後見人として吉田家を継ぐこととなりました。松陰先生は文之進の厳しい教育のもとめきめき力をつけます。天保11年松陰先生11才の時には、藩主であった毛利慶親公に武教全書を講義しました。その後もさらに学問を進め弘化4年(1847)18歳で林真人より免許皆伝を受け、22歳の時には三重傳という山鹿流兵学でもっとも高い免許を受けます。

松陰先生の学問は、家学だけに留まりませんでした。中国では阿片戦争がおこり日本の周囲にも外国の船が来るようになっている時代です。松陰先生は日本を守る為にはまず西洋の文明や兵学を学ばねばと、嘉永3年(1850)には約4ヶ月間、九州は平戸に遊学し陽明学者の葉山佐内と親交を結びます。さらに見聞を広める為、嘉永4年には藩命による江戸留学が実現し佐久間象山に師事しました。

その頃、東北地方に外国艦船がしばしば現れていたことから、松陰先生は江戸から東北へ宮部鼎蔵と嘉永5年の春に調査旅行をする予定を立てていました。しかし、友人の江帾五郎から仇討ちをしたいので一緒に行ってくれないかと頼まれた松陰先生達は大変感動し、嘉永4年の12月15日を出発の日と決めました。当時、国内旅行の時には過書(藩からの身分証明書)を持っていなければならなかったのですが、それを待っていては出発の日に間に合わず松陰先生は友人との約束を守る為、過書を持たず出発してしまいます。結局、仇討ちは仇が病死であったため実現しませんでした。松陰先生は東北各地を視察して周り、翌年の4月に東北遊学から江戸にもどって来た際に過書をもたず出発した罪で身分をとられ浪人となってしまいます。

藩主の毛利敬親は松陰先生が浪人となってしまったことを大変残念に思い、特別の計らいで諸国遊学10年間の許可をだしました。嘉永6年に松陰先生は再び江戸に向いました。江戸への道中、諸国の有名な学者をたずね歩き勉学に励みました。そして5月に江戸へ到着しました。その頃ちょうど浦賀にペリーの黒船が入港し松陰先生も実際に黒船を目で確かめることになります。阿片戦争を知っていた松陰先生は日本が植民地にされるのではないかと心配しより一層、西洋兵学などを勉強しました。

松陰先生は西洋兵学を学べば学ぶほど、本や人から得る知識だけでなく実際に目で確かめ学びたいと熱望しました。鎖国制度の時代で海外への渡航は固く禁止されていましたが、嘉永6年、和親通商を求める、ロシア使節プチャーチンの船が長崎へ入港した際、松陰先生は乗船を計画しました。しかし、江戸を発って長崎に到着した時すでに船は出港した後でした。その翌年、ペリーが艦隊を引き連れて日本に再度やってきました。松陰先生は弟子の金子重輔と共に下田沖に停泊中であったペリーの軍艦にむけて、夜小船で漕ぎ出しました。軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願しましたが、認めてもらえず松陰先生は翌朝自首し海外渡航を計画した罪で江戸伝馬町の獄に投獄されてしまいます。

松陰先生は安政元年12月、萩に戻され野山獄に投獄されました。野山獄には約1年2ヶ月投獄されていましたが、自分が投獄されていることよりも、日本を海外の列強からどのように守るかが松陰先生最大の問題でしたから、その間にも約600冊の本を読み解決方法を模索しました。また、同じ獄に投獄されている他の人に呼びかけ、俳句や漢詩、書道などそれぞれの得意分野を皆に教える勉強会を開きました。松陰もまた、皆に論語や孟子などを教えました。そういった勉強会を開くうち投獄されていた他の人も生きる希望を見出し獄の中は次第に明るい雰囲気になっていったそうです。

安政2年、松陰先生は杉家に戻ることを許されました。杉家でも松陰先生は勉学に励み、家族に孟子などの講義を続けました。するとその講義を聴こうとする若者達がしだいに集まりはじめました。そして以前に叔父の玉木文之進が開いた「松下村塾」という塾の名をつけた塾を開き、塾主を務めました。松下村塾では、身分の上下や職業などは関係なく、松陰先生は若者と共に畑仕事などをしながらそれぞれの長所を見つけ伸ばすという教育を行いました。松下村塾は僅か2年余の間しか開塾していませんでしたが、伊藤博文、野村靖、山縣有朋など、後の明治維新を成し遂げた数多くの若者達が巣立っていきました。

安政5年井伊直弼が大老となり。六月日米通商条約に調印します。そしてこれに反対する人々を投獄し罰していきました。安政の大獄です。松陰先生も日本の安全が脅かされると考え、藩主や塾生同志等に時局に対する意見書を送ります。直接行動として、老中暗殺も計画しました。しかしこの松陰先生の考えは幕府を脅かすものと考えられ、塾は閉塾、松陰は再び投獄されてしまいます。そして安政6年5月萩野山の獄を発ち江戸桜田の藩邸に護送されることとなります。

萩から江戸へ護送される際、萩の町が見納めとなる坂の上での句

かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな

松陰先生は幕府の尋問を受け伝馬町の獄に入ります。松陰先生は、誠の心をもって話をすれば自分の考えも幕府はきっと理解してくれると自分の考えを述べました。しかしその思いは届きませんでした。松陰先生は自らが死刑になることを察し、父、叔父、兄宛てに「永訣書」を書き、弟子達に「留魂録」を書きました。安政6年10月27日朝、評定所にて罪状の申し渡しがあり、その後伝馬町獄舎で松陰先生は処刑されました。享年30歳でありました。

辞世の句

親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

絶命の詩

我今為国死 死不背君親 悠々天地事 鑑照在明神
(我いま国の為に死す死して君親に背かず悠々天地の事鑑照明神に在り)

10月29日弟子たちにより小塚原回向院下屋敷常行庵に埋葬されます。
松陰先生の教育は体全体からあふれる人間愛と祖国愛、時代の流れに対する的確な把握がありました。そして、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります。


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